牟田口廉也中将のWiki的プロフィールと晩年での生活と主張は!?

本日は終戦記念日ですが、そこで話題となっているのが

「インパール作戦」を強行した牟田口廉也中将という人物です。

大戦中、最も愚劣な戦いで作戦だったと評されている

「インパール作戦」を統率していたのが牟田口廉也ですが

ここにきて、大戦中の愚行も取り上げられています。

そこで今回は、牟田口廉也について調べてみました。

牟田口廉也が取り上げられた背景は

第二次世界大戦における旧日本軍のもっとも無謀な作戦であったと

言われている「インパール作戦」惨敗の主因は、軍司令官の

構想の愚劣と用兵の拙劣にあったと言われています。

文春オンラインのなかで「インパール作戦」を強行した牟田口廉也中将

が、このインパール作戦のさなか、しかも劣勢が伝えられ

前線の兵士が苦しんでいうなか、この劣勢といわれる

作戦地域を離れなかった理由が、毎夜料亭で酒を飲み、

芸者を自分の部屋に連れ込んでいたためだと書かれて

います。

それまで勇将として畏敬されていた将軍が、暴将とか

狂将といった評価に急変しています。 

 ビルマ方面の日本軍を指揮した、第15軍司令官・牟田口廉也中将である。

昭和19年3月、多くの反対を押し切って、牟田口軍司令官が

インパール作戦を強行した時は、一部では、まだ期待をもたれていた。

何にしても、大東亜戦争(当時の日本側の呼称)の開戦の当初、

マレー半島を急進し、シンガポール島を攻略した勇将である。

しかし、今度は、ビルマからインドへ、国境山脈を越えて急進し、

3週間で英軍の基地インパールを攻略するという作戦なので、

多くの困難が予想されていた。

           出典:文春オンライン

牟田口廉也のWiki風プロフィールは

牟田口氏は、幼くして旧佐賀藩士である牟田口衛常の養子となって

います。

佐賀中学を1903年(明治36年)に中退して

熊本陸軍幼年学校・陸軍中央幼年学校へ進み、歩兵第13連隊で

の隊付士官候補生勤務を経て、1908年(明治41年)に

陸軍士官学校(22期)に入校し、1910年(明治43年)卒業

しています。隊付見習士官として第13連隊に勤務したのちに

少尉任官になり、1914年から1917年にかけて陸軍大学校(29期)在学し

陸大を卒業してからは18年間はもっぱら参謀本部・陸軍省勤務で

あったため、典型的軍人官僚といわれています。

牟田口廉也の晩年の生活と主張は

牟田口は戦後イギリス軍がシンガポールで開いた

戦犯裁判でBC級戦犯の一人として裁かれましたが

嫌疑不十分として釈放され、帰国後は東京都調布市で

余生を過ごています。しばらくの間はインパール作戦に

対する反省の弁を述べていましたが、1962年にアーサー・バーカー

元イギリス軍中佐からインパール作戦成功の可能性に言及した書簡

を受け取ったことを契機に、自己弁護活動を行うようになり

ました。その後はずっとインパール作戦失敗の責任を問われると

部下のせいであるとの論調を繰り返していました。

1966年8月2日、気管支喘息・胆六嚢症・心筋梗塞治療中に

脳出血を併発して亡くなっています。

まとめ

終戦記念日の近くになると、大戦時の模様がとりあげられますが

今回文春オンラインで取り上げられている、牟田口廉也という

軍人については、この記事の内容が本当であるならば、なんとも

上司としても下劣な人間だったことが想像できます。

戦争がこのような人物を生み出したのかどうかわかりませんが

改めて、戦争の悲惨さを思い起こさせる事件だったと思います。

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