世界遺産となった富岡製糸場の歴史とその疑問。

世界遺産登録がかなった富岡製糸場。そこで富岡製糸場の歴史をひもといてみたいと思います。

富岡製糸場は富国強兵を目指す明治政府が上州富岡に建設した国営の近代製糸場です。

建設に先立ち、横浜に滞在していたフランス人技術者であるポール・ブリュナに製糸場の運営のプランニングと工場開設後の運営を委託しました。

工員には士族の子女などを集めて、明治5年に開業しました。

官営工場時代の富岡製糸場は、採算を度外視した、繊維専門学校的な側面が強かったようです。

フランス式の労働法、労働環境であったため、開業当時の富岡製糸場は、よく製糸工場で過酷な労働をしいたげられていた女工哀史はなかったと言われていますが、実のところはどうだったのでしょうか。

実のところは、創業に関わったフランス人のポール・ブリュナは、開業後3年で解雇され、フランスに帰国したとのことです。

その後、日本人の手で生糸の製造が行われましたが、赤字続きで、明治26年には民間に払い下げられました。

民間に払い下げられた以降は明治31年に大々的な女工によるストライキが起き、過酷な労働条件を物語っていたといえます。

当時の渋沢栄一も、富岡製糸場は、民間の経営になってから製糸の近代化に貢献したと伝えています。

富岡製糸場といえば、開業当時の官営による欧米の労働環境を導入し近代化された部分が強調されているようですが、じつのところはその後の民間経営による、当時の生糸の製造にみられた厳しい労働条件のもと維持された側面をもっていることがあまり表にでないようです。

現在、あの建物の面影がのこっているのは、民間に払い下げられたのちの経営者、三井、片倉、原といった経営者のもと、当時の厳しいコスト管理のもと経営が維持されたからであります。

そしてあの建物がそのまま維持されたのは、片倉工業の経営維持できる財力と文化財を保護しようとする意識が強かったためであります。

このたび世界遺産に登録された富岡製糸場は、官営時代の欧米的近代化の側面が表にでていますが、実は当時の民間経営による厳しい労働環境のもとに経営のもと製糸の近代化なされたこともわすれてはならないことであります。

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