黒田如水の関ヶ原の陰謀とほんとの死因はなに?

黒田官兵衛がいよいよ佳境を呈してきました。

官兵衛こと黒田如水は、関ヶ原の合戦を機に

天下取りを目論んでいました。

その目論みが崩れた原因は?そして如水のほんと

死因はなんなのか?この二つの点について調べて

みました。

息子の長政が徳川家康の娘と結婚し、徳川家の参謀

となるなか、父である如水は表向きは徳川家康に

味方につき、九州地区をあれよあれよという間に

落としていきます。

有名な大友軍を石垣原の戦いで勝利を収めてからは

太田一吉、毛利信友を落としていった。

そして、加藤清正と合流し、九州最後の敵勢力である

島津討伐に向かった。

ここで、如水の計算違いは、関ヶ原の戦いで徳川家康が

短期間で戦闘をおわらせたことです。

徳川家康は島津との間で和議成立による停戦を

受け入れ、徳川家康の天下取りは短期間で確立してしま

いました。

その一番の貢献者は、息子の長政で、一番の勲章を

家康からうけています。

如水にも動向恩賞で上方や東国の領地を提示されますが

辞退し、中央の政治に関与することなく隠居生活を

します。

その後1604年に京都の伏見で死去しますが、その死因

について、物議をよんでいます。

如水はキリシタンとしても有名ですが、当時武将のあいだ

で梅毒が流行っていたともいわれています。

梅毒の症状として当時足を患う症状もあり、如水も

梅毒が直接の死因ではないかといわれています。

黒田如水はとうじには珍しく、側室をもたず、従順な

キリシタンであったともいわれていることから、

結びつかない病気ですが、当時は疫病と同じように

梅毒が流行していたともいわれています。

 

 

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